十二月一日の日記のあとに大ヶ瀬先生は長い「手紙」を書いてくれている。それは十一月十八日の日記の内容にかかわっている。さらにそれは、ボーイスカウトと数学のことにかかわっている。
ボーイスカウトは、ぼくが藤堂、川口、立花などを誘い、番匠、岡田、松島、田川なども入り、さらに一年生および小学六年生の者も入って発足した。活動は楽しかった。
しかし、ボーイスカウトはわたしを複雑な精神状態におとしいれることにもなった。それはボーイスカウトが事実上エリート集団のごときもの、それもその成員が誰の目にも明々白々に見えるエリート集団のごときものになったからである。
一学年下、二学年下のメンバーがどうやって選ばれたのかわたしは知らないが、少なくともわれわれの学年について言えぱ、希望者を募ったのではなく、大西先生とわたしが誘った顔触れだった。だから、どちらかといえば「明朗善良、成績優秀、品行方正」型の者が集っていた。下の学年の者もみなそういうタイプのほんとにいい子たちばかりだった。当然まわりの者の目には「できる連中、お気に入り」の集団と映っただろう。
それに、戦後のまだ誰もがみすぼらしいなりをしていた時期に、ボーイスカウトのお揃いの制服は輝くばかりに格好よかった。
だからわたしは、ボーイスカウトの仲間たちといっしょに活動している時は楽しくてしょうがないのに、それ以外の時、特に学校では、ボーイスカウトであることがうしろめたい、という矛盾した、あるいは引き裂かれた心理状態にあった。
スカウト同士はどこで会っても三本指の敬礼をすることになっていた。それは当人同士の礼というより、事実上周囲に対する誇示であった。それがわたしは素直にできず、そしてまたそのゆえに、誇らしく朗らかにきっぱりと敬礼する仲間に対してまた申しわけなさを感じなければならなかった。
もう一つ、数学のことがあった。これは、はっきりしていた。西本先生は学校でわれわれの数学の授業を担当している先生である。その先生に課外に特別に数学を教えてもらっている。わたしにはそれは非常にうしろめたいことであった。
わたしはそれを、日記で、「僕は気が弱い」という言いかたで大ヶ瀬先生に訴えた。それに先生が返事をくれたのである。まず日記をかかげる。
十一月十八日 土曜日 降ったり雲ったり
僕はたしかに気が弱い。と云う事に今日、確信を得た。
と云うのは今日の帰り丁度雨が降っていなかった。
しかし皆、傘を持っていた。
それで僕と室井が傘とかばんの持ち合いをしようと云う事になった。
傘は自転車に乗った女の人、かばんは自転車に乗った男の人が来たらかわると云う事になった。
所がこの持ち合いを面白がって五六人が「ほら、又来た」「あ、又かわらんなんなあ」とか何とか云いながらついて来る。
すると、川口の家へ行く道の所へ来た。
しかし僕は何と云う事なしにみんなに対して「僕は今日、川口の家で数学をするから、では、グッバイ」と云う元気がない。
それでガレーヂの所まで行ったが、その途中、僕が傘ばかりを持ち、彼がかばんばかりを持っている時に交換してやった。
丁度ガレーヂの所でつごうよく、下駄のはなおがゆるんだので、「皆、先に帰りよってくれ」と云って下駄をなおして、そのまま川口の家へ行った。
これは僕が級友皆の見ている前で堂々とボーイスカウトの三本指のけいれいをするのがなんとなくへんな（いやな）気がするのも同じだろうと思う。
別に悪いことでは決してないのだから何れにしても堂々とやったらよい筈である。
僕はたしかにひきょうである。
これに対して大ヶ瀬先生は長い「手紙」を日記帳に書いてくれた。今見ると、わたしの訴えと先生の受取りかたとのあいだに若干のズレがあるように思われるが、以下全文を録す。
※
手 紙
十一月十八日の記――高島が気が弱いということについて
川口宅で数学の勉強をするということを皆にいうのが気まずかったり、皆の前で三本指で敬礼をするのが照れくさかったりするようだ。それは自分の気が弱いからだと考えているようです。他の連中がひやかすということもカンジョウに入っているらしい。少年の頃には、よく、そうした事を感じたり考えたりするものですが、それは一滴一々ひじょうな苦心でしぼり捨てゝ行かねばならない。教育というのは、色々な智識を頭の中へつめ込むことだけではない。自分で自分を安心して立っていられるようにする事なのだ。特に社会科、ホーム・ルームではそういうことをやらないといけない。四組がよくないというが、確かによくない。第一、君のいうことをすなおに聞いてくれる生徒が何人いるか、考えてごらん。なぜきかないのだろう。四組の政治が悪いのだ。それなら、どういうわけで悪いのだろう。どうすればよくなるのだろう。それをまじめに考えてみた事があるだろうか。それは、君だけではない。潮見さんも、室井君も、久保さんも、そんな事にはあまり興味がないのだ。そういうと怒るかも知れない。四組がよくなるように願っている、努力しているといって。けれども悪くなっている原因が自分にあるなどと思った事は夢にもないでしょう。悪いのは兼川や、松尾や、平沢や、金治だと思っていないとは云えないだろうと思います。この点では大西先生もそう思っておられるらしい。けれども、それはまちがっている。悪いのはむしろ君たちだ。君たちの組では、ヤミをやらないものは甲斐性なしだということになっている。時間が始まって皆が暴れている時に一人だけ机に坐って予習をしている者は、悪者だということになっていると思います。もし、その人が君であって、その為に先生にひどくほめられたりでもしたら、君はきっと困ってしまうだろう。そんな人たちはどうなっていくか。假面を二つもっていて、時と場合とで、それをかぶりわけていくのだ。そうして、心の中に重く残っていくのは、自分はひきょう者だ、ぼくは個人主義者だと思う苦しさなのだ。
けれども本当の気狂いが自分は気狂いでないと思っているように、ほんとうの個人主義者も自分は個人主義者だなどと考える事はないものです。そうしてみると、君はニセモノの個人主義者なのだ。
先に、兼川や金治より君たちの方が悪いといゝましたが、それは何故かといいますと、兼川や金治が人を指導するような立場の人間になるような事は、まあ、殆ど無い。けれども、君たちは将来、きっと、指導者にならなくてはいけないのだ。日本では、現在、りっぱな指導者を最も必要としている。けれども、下らん奴等に引きずり廻されるような指導者はいらないのだ。こういうと、君は、指導者になんかなりたいと思っていないというかも知れない。けれども、日本をこんなみじめな所に落としこんでしまったのは、今までの指導者だったということを考えたら、……
四組の事をひどく悪く云ったかも知れません。けれども、よい所だって、悪い所に劣らないくらいたくさんあるんだよ。大西先生を中心にして、まるで一つの家族のように楽しくやっている所などは実にいいのだ。誰が言い出したのか知りませんが、久安君の所へ手紙を書いたのも、よいことだ。けれども、これからの社会は、そんな家族主義みたいなものだけではやっていけないんだ。君は委員長だが、その委員長の仕事は何か知っているだろうか。そして、その仕事をうまくやることが出来るだろうか。三本指で敬礼するのを皆の前でやるのが照れくさいように、自治会の議長を立派につとめていくのがバカらしい氣持ちなのではなかろうか。分団学習を山本や井上と一しょにやるのが下らないように思っているのではないだろうか。川口君宅で勉強するのが皆にすまないと思ったら、やめるのがいゝ。皆の前で三本指で敬礼するのが厭なら、ボーイスカウトを退団すればよい。退団するのが厭だったら皆の前では敬礼はしないという事に決めておけばよい。こうした性質は、生れつきでどうにもならないと考える人もあるようですが、それはまちがっている。けれども、君たちの年頃に習慣になった事は仲々抜けないものであることは本当です。ちょうど背骨が固まるころで、今曲って固まったら一生直らないようなものです。むつかしい事をくどくどと書きましたが、これからは新しい世の中になったのだ。君たちが大きくなってからの世界はもう、今の大人たちの世界とはちがうんだ。ぼくのいう事と、君のお父さんお母さんのいわれる事と、ずいぶんちがっているかも知れない。「ものそのもの、ことそのことは絶対的に云って、正しいもまちがっているもない」ものだが、ただ、君が、どっちのいう事も丸のみこみにしないで、自分で考える事が大切なのだよ。もうすぐ正月が来る。こんどは一つ年をとるというわけにはいかないが、新しい年には、今までの古い着物は脱ぎすてないといけない。もうそろそろその時期が来ているんだ。そう思って、いやなことだが一ぺん云いたいと思っていた事を、書いてみました。
大ヶ瀬先生はむしろ、わたしのクラスリーダーとしての無能、意志の缺如、いわゆる「悪ガキ」たちに迎合して調子を合わせて行こうとする卑屈な態度に不満を感じておられたようだ。「下らん奴等に引きずり廻されるような指導者はいらないのだ」というような所にそれがよくあらわれている。そしてまた大ヶ瀬先生が言うようにわれわれの二年四組は問題の多いクラスだったらしい。
大ヶ瀬先生が上の「手紙」を書いてくれたのは昭和二十五年の十二月だが、年が明けるとすぐ、クラス換えがおこなわれた。「問題児」を分散させるのが目的だったようであり、また大ヶ瀬先生、西本先生のリーダーシップで実施されたようである。日記を引く。
一月八日 月曜日 晴
今日は始業式であった。
ホームルームの時間には「近頃暴力行為が多いので無記名になぐられた事、なぐった事、それを見た事等を書け」と云うわけで一枚ずつ紙を渡された。
一月十日 水曜日 晴後曇
ホームルームの時間に先生が「六時間目にクラスヘんせいをやる」といった。みんなは「今日で最後だ」「みんなであばれるのもこれでしまいだ」「思う存分あばれェあばれェ」と云って昼の休憩時間に全く思う存分あばれた。しかし五時間目に大ヶ瀬先生が来て「もっとしんちょうをきわめるためへんせいは土曜までのばします」と云った。
一月十三日 土曜日 晴
今日は組がえである。朝自転車を学校に乗り入れるとノリちゃんがいて「おーい高島、お前一組やど」と教えてくれた。自転車を置いて廊下の掲示板の所へ見に行く。すごい人だかりである。成程四組から一組へ行くものの中に中谷や米口と一諸に僕の名前があった。担任は西本先生である。四組から一組へ行ったのは、立花、中谷、米口、山本、それに僕の五人であった。小学校入って以来、一組になったのは始めてである。しかしずらっとその名前を見わたした時、「こりゃァいゝぞ」と思った。どうも悪そうな奴も、親分になりそうなやつもいない。鳥生はたまに悪い事をするかも知れんが、人がいゝしすぐあがる。六年の時ずっと並んでいたからあまり僕には悪い事をしない。川口が同じ組だった。成程少し嬉しいが矢張り彼とは離れていた方が良い様な気がしないでもない。
烏生がそばで見ていた。僕を見て「握手、握手」と握手を求めて来た。「ＯＫ！」勿論喜んで握り返した。間もなく鐘が鳴るとぞろぞろと机やいすをかゝえてかわり始めた。僕も「ウワーイ、ウワァーア」と奇声を挙げながらぞろぞろと一緒に運んだ。
藤堂は又二組だった。担任は大西先生であった。三組は大ヶ瀬先生、四組は橋本先生である。
大ヶ瀬先生の授業に関することをいくつか──
一月十九日 金曜日 晴
僕達は近頃国語で俳句をやっている。二時間目の国語の時間大ヶ瀬先生がこんな事を話した。勿論五分か六分の話だが。
先生も子供の頃は俳句を作ってお父さんに見せていたが、お父さんは一辺もほめた事がなかったそうで、いつも散々にこきおろし、たまに上手なのがあると「まあ、こんなものだなあ」と云っていたそうだ。
放課後僕は藤堂、立花と一諸に職員室へ英語のホームウァークのノートをとりに行った。
その時大ヶ瀬先生がちょっと入って来て"性格の調査法"とかいう本を持って出て行った。少なくとも僕にはそう思われた。でノートをとってからなにげなく大ヶ瀬先生の机の上を見ると歳時記とかいう本があってたしか、〝大ヶ瀬千濤〟と名前が書いてあった。三人は「これだれだろう。」「大ヶ瀬はんのペンネームやな。」これは藤堂である。僕はそうは思わなかったので「いや多分大ヶ瀬はんの親父の名前やと思うな」と云う事から、大ヶ瀬先生の親父さんの話が職員室の真中で大きな声ではずんで行った。藤堂がその俳句をこきおろす話を聞かないと云うので話してやって「たまにうまいんがあったらなあ、『まあ、こんなもんやなあ』ゆうんやて」と云っていると藤堂が「おい、おるんやで」と云った。
見ると一番端の松田先生や橋本（男）先生の所で大ヶ瀬先生等がクスクス笑っている。大ヶ瀬先生は特に赤い顔をしていた。
とたんに僕の顔はカァーッとあつくなった。ちょうど悪口を云っている所へその本人があらわれた様なもので全くどうしてよいかわからなかった。
しかし、すぐに飛出すのも何だかおかしい様に思ったので、やせがまんしてしばらくそこにいてから堂々と出て行った。
大ヶ瀬先生は、自分の席をわれわれが占領して話を始めたものだから、すみのほうの空いた席に坐って待っていたのである。
那波中ではこんなふうに生徒はいつでも自由に職員室に出入りしたし、あいている椅子に坐りこんで話もした。寒い時期にはストーブにあたりにも行った。だから、職員室というのはそういう所だとわたしは思っていた。のちに高校に入って、そのつもりで職員室へ行ったら、入る時は戸をノックしろと注意されたり、「何か用か」と問われたりして、とまどったおぼえがある。那波中はわれわれが入る二年前、昭和二十二年にできたのだが、ああいう自由な、のびのびした雰囲気は当初誰が作ったのだろう。
二月二日 金曜日 晴
昨日僕は藤堂と口論をした。問題は何だったかと云うと、彼は、〝えせもの〟を主張し、僕は、〝にせもの〟を主張したのである。彼は別に何も理由を云わないで只「国語の時間に大ヶ瀬先生が云った。先生の云う事にまちがいはない」一点ばりである。僕は「〝えせもの〟と云ってもあまり知っている人はない。所がにせものと云えばだれでも知っている。つまり今の時代が〝にせもの〟を本当の国語と決めているのであるから、社会がそう決めそして使っている言葉が正しい」と主張して最後に「先生に聞いて見よう」と云う事に決った。そして藤堂は「先生はたしかに僕等の教室で皆の前で云ったのだから絶対に『〝えせもの〟が本当だ』と云うに決っている」と自信満々だった。そして今日きいたのである。果して、先生は「えせものが本当だ」と云った。それでも僕は「にせものが本当だ」と云っていると、大西先生が僕に味方してくれた。そしてしばらく両先生がいゝ合っていたが、結局どうなったかはわからない。
「悪いと知ってするのが悪いか、知らずにするのが悪いか」問題は、飯田も磯部も藤堂も、「大ヶ瀬先生が教えてくれたこと」というと必ず一番に挙げることである。わたしはこう書いている。
二月九日 金曜日 晴
大分前だが大ヶ瀬先生がこういったことがある。
「知って悪い事をするのは、まだ良心のかしゃくがあったり後悔したりするが、知らないでするのが一番恐しい」と。
所で同じ頃大西先生はこういった。
「知らないで悪い事をするのはまだ罪がなくていいよ。知ってするのが一番悪い。」僕にはどちらが本当か考えてもわからなかったので母にきくと母は「大西先生のいった方があっているように思う」といった。西本先生にきくと、
「先生の立場から見ると大ヶ瀬先生の方が正しいだろうなあ」と答えた。
所が咋夜母は″生長の家″のお話に行って話をきいて来たが咋日来た先生は大ヶ瀬先生と同じ意味の事をいったそうだ。そして母も「話をきくと、たしかに私もそう思えて来た」といっていた。しかし、僕にはまだわからない。
※
三月五日に大ヶ瀬先生がコメントを書いてくれている。
もう、此の日記のノート・ナンバーも五つを数えるようになったのか。早いものだ。
これだけの間、書きつゞけて来た者だけが味わい得る楽しみはもう経験しているだろうと信じます。実際、人間の心に浮んでは消える想念の中には、随分、価値の高いものも多いのだが、多くは忘却の中に失われてしまって、永遠に日の目を見ないで了うものだ。自分の起居行動というようなものも、まとめて考えてみると仲々思い出せないもので、とりわけ、内容のなかった一日、又は、何の意義も感じられなかった行動は記憶に止められない。我々の頭脳は、そうした、つまらなさを忘れるようにできている。けれども、それと共に、一生に二度と訪れて来ない若い季節の価値高い印象、感想まで一しょに葬ってしまうのは惜しい事だ。日記を書く事はこうした思い出を開く鍵をこしらえる事ではないだろうか。けれども、それだけではすまない。日記には、そうした未来に対する用意の他にもっと大切な事がある。或は、これはぼく一人の考えかも知れない。およそ、自分が感じ行ったことを文章に表現することは、大変な労力を要するものだ。ちょうど電気コンロのニクロム線が抵抗によって熱するように、無意識に送り迎えしている毎日に対して、抵抗を意識する、そこに精神の火が熱せられる。それが日記ではないだろうか。当然、一日一日の生活に責任が伴われる。文章にもその責任がにじんで来る。──こんな事をいうとむつかしいが、君は相変らずスラスラと書いている。それは疑いもなく大した事だ。ぼつぼつ随筆ふうの文句が見え始めて来たようだが、そいつをいいかげんな所でほうって了わないことだ。眞実をみつめる眼を養へ。いいかげんなものではない自己の意見を育てよ。──そうだ、そこに、精神の収穫は無限となるだろう。 （一九五一・三・五）
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昭和二十六年四月、わたしは三年生になった。四組、担任大ヶ瀬先生である。松浦、村尾、西川、巻幡、平沢などがいっしょであった。
ついでにいうと、一組は角田先生、二組は西本先生、三組は大西先生。立花は一組、川口は二組、藤堂は三組である。
その少し前から、飯田宅で英語の勉強が始まっていた。家計との関係でわたしは悩んでいた。
このころ、わたしの家の家計は非常に苦しかった。もともと、中学生のわたしを頭に子供が六人いて楽でなかったところへ、この前後、どういういきさつがあったのか父が帰って来て、失業状態にあったからである（父はそれまでずっと岡山県北部の山の中の何かの工事現場へ行っていて、家に帰って来ることはめったになかった）。
母は、わたしが日記を書いていることも、大ヶ瀬先生に見せていることも知っていて、わたしは母から「お金に関することは絶対に書いてはいけない」と命ぜられていた。だからたいていのことは書かなかったが、しかし母は日記を検閲するわけではなかったから、よほどのことはやはり書いた。たとえば、新学期に妹たちの教科書代がなくて、母が学校へ行って先生に、お金が入り次第寺田屋へ行って買いますからそれまで教科書なしで許してくださいとお願いした、というようなことである。
だから、本来飯田や藤堂と同じことができるはずがなかったのだが、母は歯を食いしばって突っ張るたちで、「わたしの身の皮を剥いでも、藤堂さんのすることはあんたにもさせる」とよく言った。
内証が苦しいのがわかっているのにそれを表に出してはならず、平気な顔をしてつきあってゆかねばならぬところに、母とはまた違うわたしの苦しみがあったわけで、この件については、大ヶ瀬先生に初め日記で訴え、担任になってから直接相談することになった。
二月二十二日 木曜日 雨後曇
去年阪大を出て今造船所で働いている、飯田のお父さんの部下が、飯田宅で飯田に英語を教えるんだそうだ。藤堂も行くんだそうで、今日彼と彼の母が僕に相談を持ちかけて来た。僕は母に相談するといっておいた。
母に相談すれば勿論「行きなさい行きなさい」というに決っている。何も金があまってるわけじゃないんだが、母は僕の勉強の事だといやな顔一つせずにいう事を聞いてくれる。それがよけい僕には困るのである。それに近頃は父がつとめ先をやめるとかいっている。母は僕が旅行したりする度に自分が持って来た着物などをうるのである。
しかしだまっていたら後でそれを知った時、「何故私にいわなかったの、それ位のお金は私がどうしてでも出してあげるのに」というに決っている。いやなら「いや」とはっきりいってくれゝばよいのだが……
その点川口は気楽なもので、「わしとこは金がないからようやらんわ」とことわった。わたしは一応参加したが、結局続かなかった。
四月二十五日 水曜日 晴
飯田宅での学習の事、母に相談したところ、「今頃は父もブラブラしてお金もあまりはいらないので、なるべくならやめてもらいたい。しかし、どうしても今の中に勉強しておかねばならぬなら、無理をしてもやってあげる」といわれた。
とにかく大ヶ瀬先生に相談してじっくり話をきこう。
四月二十七日 金曜日 晴
放課後一時間半程、宿直室にて大ヶ瀬先生と話をする。
飯田宅での学習はやめることにきめた。
もともとやめるつもりの所へ大ヶ瀬先生がやめたらいゝといわれたからである。
僕も色々の事情や勉強の工合を話したからまず先生のいうことに間違いはない。
※
当時高校に入るのに入学試験と称するものはなかったが、似たようなものでアチーヴメントテストというのがあった。少しは準備をしなければいけないものかと思い、香山書店へ行ってみると、前年度の全国のアチーヴメントテスト集が並んでいる。旺文社（百七十円）、向上社（二百円）、清水書院（二百三十円）などである。
翌日職員室へ行って大ヶ瀬先生に「先生あんなの買うて勉強せなあかんのですか」ときくと、先生は言下に「せんでええ」と言った。「ほんなら落ちたらどないするんですか」と言ったら、先生は「おまえが落ちたらわしがいっしょに先生やめたらあ」と言って「アッハッハア」とあの黄色い歯の大口をあけて愉快そうに笑った。それでいっぺんに気が楽になって、アチーヴメントテストの勉強はしないことにきめてしまった。
大ヶ瀬先生に「君がこれまでに書いた文章のなかで自信のあるものを集めて、清書して持って来たまえ」と言われたことがある。無着成恭の『山びこ学校』が評判になったころである。
そのころわたしはしきりに志賀直哉を真似た文章を書いていた。
二年生の時、立花の家へ遊びに行って兄さんの本棚を見ていたら、岩波文庫の『小僧の神様』があった。わたしはそれを、一寸法師のように体の小さい神様だと思い、「これはおもしろそうだ」と借りて帰って読んだ。全然違っていたが、しかしたいへんおもしろく、そのスタイルを真似た文章を書き出したのである。
わたしは何事にも人の影響を受けやすいたちで、文章もその例にもれず、初めは漱石の『坊ちゃん』『猫』の真似をし、ついで芥川龍之介の真似をし、このころは志賀直哉時代だった。村尾や西川と『月塔』というガリ版雑誌を作ってエッセイのようものを発表していたが（なおこの『月塔』というタイトルは大ヶ瀬先生につけてもらったのである）、それだけでは足りず、ノートになんやかやと書いていた。
それらのなかからよさそうなのを選んで先生の所へ持って行った。先生はどことかへ送ると言っていたが、結局それきりだった。採用されなかったのだろう。
※
大ヶ瀬先生に日記を見てもらうのは二年生の学年末まででおしまいになったようだ。そしてその半年ほどのちには日記を書くこと自体をやめてしまったらしい。だから卒業前後のことは記憶に頼るしかない。
藤堂や飯田といっしょに姫路の高校へ行く話が持ちあがったのは、多分秋になってからだろう。
当時は小学区制で、相生市内の中学を出た者は相生高校へ行くに決っていた（もっとも実業高校は拘束がなく、だから川口は姫路の工大附属へ行った）。
ただしこれには抜け道があって、姫路へ転居すれば姫路の高校へ行くことができた。これを利用して住民登録だけ姫路へ移して姫路の学校へ行くのを「寄留」と称し、俗に「モグリ」と言っていた。われわれはそのモグリをやろうとしたのである。
そんなにしてまで姫路の学校へ行こうとしたのは、藤堂や飯田のお母さんは早くもその先の大学のことを考えていたからであろう。今なら普通のことだが、当時、昭和二十年代なかごろの田舎町で、そこまで頭の働く親はめったになかっただろうと思う。藤堂や飯田の場含はお父さんが大学を出ておられたから、お母さんもそれに考えがおよんだのであろう。
わが家のほうは、父のきょうだい九人、母のきょうだい七人の親戚一統を見渡しても、母の末弟が戦争末期に讃岐の田舎の商業学校へ行った（当人によれば習ったのは喧嘩だけという）のが最高学歴で、あとは小学校しか知らないのだから、教えてもらわなければ、とても母にはそんな智慧はなかったろう。わたしはなおさらで、自分が将来大学へ行くとは考えたこともなかった（もっとも「大学」という言葉は、わたしは小さい時から知っていた。ほかの友だちの家へ行くと表札にはお父さんの名前が書いてあるだけなのに、藤堂の家のは「醫學士藤堂泰」と、名前の上に何かついている。あれはなんだときくと、大学を出ているのだと教えてくれたからである）。
どういうことで大ヶ瀬先生が知ったのか、おそらくは親たちが学校へ行って、姫路の学校へ行かせたいと言ったのであろう。わたしは先生に呼ばれた。先生はわたしに、相生高校へ行け、と言った。ずいぶん長い話だったと記憶しているが、今おぼえていることは多くない。「那波中の生徒は優秀なんだから、みんなが相生の高校へ行けば姫路の高校に負けない学校になるんだ。だから橋田も行ったんだ。」と言ったこと、先生が「抵抗」という言葉を何度も口にしたこと、最後に、「これを読め」と『チボー家の人々』を渡されたこと、それくらいである。
わたしは帰って母に「ぼくは相生高校へ行く」と言った。それから母が藤堂の家へ相談に行き、相当すったもんだがあって（そのすったもんだの次第はもうほとんどおぼえていないが）、結局わたしはもとどおり姫路へ行くことになった。
あとのことになるが、大ヶ瀬先生が言ったことは本当だ、と思ったことをおぼえている。高校では学期ごとに、学年全員の成績順を発表したが三年間を通じていつも、わたしが一番、藤堂が二番、上の学年を見ても藤家洋一さんがいつも一番、以下も那波中モグリ勢で、みんなモグリなんてうしろめたいことをしないでまとまって相生へもどったらそのほうがずっといいのに、と思った。それでもやはり姫路へ、あるいは龍野へとばらばらに逃げてしまうのが、相生の習性だったらしい。十二学年下のわたしの弟も友人たちといっしょに姫路ヘモグったから、そうした傾向はかなり長く続いたようだ。
※
昭和二十七年三月にわたしたちは那波中を卒業した。
わたしは答辞を読むように言われ、いかに大ヶ瀬先生の命令でもこれだけは絶対にイヤだと頑張って、先生を困らせた。
これは一年前の送辞で懲りたからである。
当時は西本先生の担任だった。先生に「おまえが送辞を読むことになったから下書きを書いて来い」と言われた。気が重いが先生の命令だから「はい」と答えた（そういう際に「名誉なことだ」とうれしく思うところがわたしにはなくて、「あーあ、またか」と心が沈むのが常だった）。
家に帰って書こうとしたが、全然書けない。
これは一つには、わたしは自分が書きたいことはいくらでも書くけれども義務で書くのはまるでダメだったということがあるが、加えてもう一つ、一年上の生徒によく殴られたということがあった。
あれは、なぜ殴られるのかわからなくて気味が悪かった。知らない上級生が「ちょっと来てくれ」と呼びに来る。一棟のあたりへつれられて行くと数人が待ち受けていて、いきなり袋叩きにあう。泣いているわたしに「先公に言うたらこれくらいですまへんで」と言い残して行ってしまう。あとがこわくて人に言えないから、自分だけが殴られるのかどうかもわからなかった。だから彼等が出て行ってしまうのは、もうこれで殴られなくてすむ、というほっとした気持で、「送る言葉」など書けないのも無理はなかった。
母に「書けない」と言うと「裏の中本さんのお兄さんに書いてもらいなさい」と言った。この人は当時国鉄に勤めていて、二十過ぎくらいだったと思う。頼んだら書いてくれた。「お兄様、お姉様と慕って来た皆様とお別れせねばならぬかと思うと、万感胸に迫り……」などとあった。それをそのまま書き写して学校へ持って行って提出した。早速すぐ次の国語の時間に、大ヶ瀬先生に「あれは君が書いたのか。あとで職員室へ来たまえ。」と言われた。行くと西本先生が待っていて「君自身のものを書いて来い」と突き返された。
やむなく今度は母に書いてもらったのがどうやら合格し、寺田屋へ行って長い紙とそれを入れる袋を買って来て（その費用も自分持ちである）、墨を磨って毛筆で書いた。
卒業式前々日には運動場で予行演習があり、全校生徒の前で野坂校長先生から、御辞儀の姿が不格好だと、何べんも何べんも直された。上体と頭部とを一直線にして、正確に四十五度、すっと前へ倒さねばならぬのだが、それがうまくできない。校長先生が大きな声で「頭が高い」とか「ほらまた尻が突き出た」とか言う。そのたびに数百人が一斉にドッと笑う。はずかしくてはずかしくて、もう絶対にやらないと固く決意した。
大ヶ瀬先生の言うことなら何でも聞くのに答辞だけは頑強に拒否したのは、そういううわけである。先生に何度も「君がやってくれないと俺が困るんだ」と言われたが、とうとう頑張り抜いた。母には黙っていた。
卒業式に来た母は、よほど驚いたらしい。帰って「どうして答辞を読まなかったの」と聞かれたので、「いやだからことわった」と言ったら、母は泣いた。去年送辞を読んだからもういいじゃないかとわたしは言ったが、母は、送辞と答辞とは違う、と言った。送辞は親がいないから値打ちがないことをわたしは初めて知った。
今、あれから四十年もたって、母ももう死んでしまって、こうして大ヶ瀬先生の追悼文を書くために昔の日記を探し出して読んだり、昔のことを思い起したり、考えてみたりしていて、やっとわたしはあの時の母の悲しみがわかった。
わが家には、誇るべきものが何もなかったのだ。ただ、わたしが、藤堂や立花などいわゆる「いいとこの子」と仲のいい友だちで、学校での成績も負けない。それが母のたった一つの誇りであり、生きる支えだったのだろう。そしてそれが目に見える形を取るのが、わたしが卒業式で答辞を読むということだったのだ。
母は、聡明で、プライドのある女だった。わたしは東京で、ずいぶん賢い女もいる学校に前後十五年ほどいたが、この人は自分の母親より聡明だ、と思ったことはほとんどなかった。今のような時代だったら、教育を受けて、相応の職業について能力を発揮するなり、相応の家庭を持つなりできただろうが、生れた時代と環境が悪すぎた。生れてすぐ銅山の坑夫の子にやられ、ろくすっぽ学校へも行かせてもらえなかった。小学校三年生のころ（正確には、三年生であるべきはずのころ）、冬の朝、川の氷を割って下の子たちのおむつを洗っていると、むこうの土手道を女の子たちが学校へ行く。自分も学校へ行きたくて行きたくて、泣きながらおむつを洗った、と言っていた。女が本を読むのを親が許さないので、夜、寝床で布団をひっかぶって読んだ、それで目が悪くなった、とも言っていた。
自分が勉強したくてもできなかったから、母にしてみれば、わたしが代って勉強しているのだった。わたしの成績がいいのは、自分の成績がいいことだったのだ。言ってみれば、わたしがカタキをとってくれている、ということだったのだ。
卒業式でわたしが答辞を読むのは、母が、やっと晴れの場に出られる、藤堂の母や立花の母の前で初めて肩身の広い思いができる、そういうことだったのだ。だから母はあんなに泣いたのだ、と今にしてわたしは思う。
※
高校に進んでからも、大ヶ瀬先生の宿直の日には立花や藤堂といっしょに時々学校へ遊びに行った。われわれが三年生の年（昭和二十六年）の秋から那波中は丘の台に移転して、職員室は一階の端にあった。先生はそこでわれわれにオイチョカブを教えてくれた。「ドッチモドッチモドッチモドッチモ」という掛け声がおもしろかった。
文庫本のリストにマークをつけて、読むようにすすめてくださった。笠信太郎『ものの見方について』やメリメの『コロンバ』を読んだのをおぼえている。
先生はレコードに凝り始めたころだった。藤堂に「今度これを買ったんだ」と言って、二人で『くるみ割り人形』に耳を傾けていた。音楽の話の時は、わたしはアウトサイダーであった。
わたしが行かない時も立花は一人で行っていたようだ。
ここでちょっと立花のこと──われわれの仲間のうちで最初に死んでしまった友人ことを書いておきたい。
わたしが立花と友だちになったのは、中学一年の秋、わたしの家が陸に引っ越して家が近くなってからである。立花はわたしと遊びたがったが、わたしのほうは、初めのうち、極力立花を敬遠していた。というのが、立花は癇性で逆上しやすい。逆上するとわたしをむちゃくちゃに殴るからである。それも、いつ何がきっかけで逆上するかわからないので、用心のしようがない。
たとえば──、立花は周児という名前なので、愛称（あるいはアダ名）を周ピンと言った。この愛称を立花は嫌っていた。立花としゃべっていて、「それを聞いてわしはピンと来たんや」というようなことを言ったとする。とたんに彼は逆上してわたしを殴り出す。なぜ殴られるのかわからない。あとで「なんであいつおこったんやろ」とよくよく考えて、「ああ、あのピンがまずかったのか」と気がついてももうおそいのである。
二年生になり三年生になるにつれてだんだん殴らなくなったので、しょっちゅう家へ遊びに行くようになった。立花の家は大きくて、わたしの家にはないようなものがいろいろあった。立花のお父さんが当時造船所のどういう地位にあったのかわたしは知らないが、多分重役クラスだったのだろうと思う。
そのころこんなことがあった。わたしの父は造船所の下請けをしていた大本組の鉄工部にいた。ある日帰って来てわたしに「おまえのおかげで今日立花さんに声をかけてもらえた」と言う。工場内で会ったので「大本の高島でございます」とおじぎをしたら、「おお、高島君か」と肩を叩いて、「うちの周児が君の息子さんと仲よくしてもらっているそうな」と言ってくれた、というのである。父はこれがよほどうれしかったと見えて、その後も機嫌のよい時にはよく「おまえのおかげで立花さんに声をかけてもらえた」とくりかえしたものだ。そんなことでもなければ下請けの社員などは口を利いてもらえないような地位の人だったのだろう。
高校へ進む時、立花は、わたしや藤堂といっしょに姫路の学校へ行くことを強く希望していた。というより、まったくそのつもりだった。それが行けなくて、龍野の高校へ行くことになった。一途な男だったから、これはよほどのダメージであったようだ。すこし言動が妙になって来た。
たとえば、いっしょに歩いていると、急に「気をつけろ、つけられている、ふりむくな」などという。わたしが平気でふりむいて、「誰がわしらのあとなんかつけるもんか。アホか、おまえは。」などと言おうものなら、黒くなっておこる。興奮しやすい男で、普通の者なら顔が赤くなるのだが、彼のばあいはそれを通り越して黒くなるのである。
そういえばこんなことがあった。中学三年の時、花田繁治が立花に「おまえのお父はんとお母はんはアレをやっておまえをこしらえたんやで」と言った。立花は本当に真っ黒に、石炭のような顔になって激怒した。花田はその剣幕に驚いて逃げ出した。立花は執拗に追いかけたが、花田の逃げ足が速くて見失ってしまった。立花はもどってきて今度は泣きながらわたしに、「わいとこのお父はんとお母はんはそんなことせえへん。そやろ、な、そやろ。」と言う。「あたりまえや」とわたしは答えた。立花はなおも泣きながら「わしは必ずゲジを殺す」と言った。
立花の「つけられている」という観念はだんだんひどくなって、突然わたしの手をひっつかんで路地から路地へと猛烈な勢いで逃げ回ることもあった。
大ヶ瀬先生が宿直の夜に立花が一人で学校に行ったのは、最も尊敬する大ヶ瀬先生にそのことを訴えに行ったのである。
あのころは今と違って、心の病いに対する社会一般の知識も関心も同情も少なかった、あるいはほとんどなかったのではないかと思う。大ヶ瀬先生ですらそうだった。立花がいっしょでない時、「立花が変なことばかり言うて来るんで困るよ」と笑っていた。もとよりわたしは「あいつ時々アホなことを言う」としか思っていなかった。ずっとあとになってわたしは、立花があんなに早く死んだのは、そこに至る筋道、あるいは原因があのころから始まっていたのではないか、と考えるようになった。
立花もわたしももう大学に入って、立花の家がまだ陸にあったから、あれは昭和三十二年前後だったと思う。ＬＰレコードがはやり出したころで、立花の家にはいいプレーヤーがあった。立花はべートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聞かせてくれて、「死のうかと思うんだけれど、これを聞くと生きていようと思う。」と言った。今でもべートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聞くと必ず立花のことを考える。そしてまた、これはたしかに生きる勇気を呼びさましてくれる曲だと思う。
昭和三十六年頃から二年ほど、立花とわたしはどちも東京八重洲の会社に勤めていて、時々昼飯をいっしょに食べたりした。立花の家はもう東京に移っていて、東横線の都立大学でおりて少し歩いた所にあった。飯田が早稲田の面影橋のアパートにいて、磯部が九段の住宅公団に勤めていて、われわれは飯田のアパートに集まったり日曜日に立花の家へ行ったりして麻雀をした。立花宅でメンツが足りない時はお父さんや兄さんが加わった。
立花は大阪へ転勤になって、まもなく死んだ。われわれはびっくりして立花の家へ行った。お母さんが、もう体がばらばらになったみたいに、ほとんど立つ力もなく、泣いておられたのが今でも目に浮かぶ。
※
大ヶ瀬先生は三十五年にもわたって相生市内の中学校の先生をされたのだから、教えを受けた相生の子はおそらく一万人にも達するだろう。先生を尊敬し、影響を受けた生徒も決して少なくはないだろう。しかし、わたしほど致命的な影響を受けた者は、多分ほかにそういないのではないか、とわたしはずっと思ってきたし、今も思っている。よくも悪くも、わたしの生きかたは、十三歳と十四歳の時に大ヶ瀬先生に決められてしまった──そう思っている。
それは、ごく簡単に言えば、「人がすることはしない」「誰もがすることはしない」ということである。
「誰もがすることはするな」「みんながやるからといって君もやらんならんことはない」と先生に言われたことはある。たとえばみんながアチーブメントの勉強をし出した時に──。しかしそれだけではない。これは、わたしが大ヶ瀬先生から教えられたり言われたりしたことのすべて、わたしが先生の言うことすることを見て感じたことのすべてを、全部総合して、わたしが大ヶ瀬先生から受けた最大のメッセージであり、あるいはほとんど遺伝子のようなものである。
それは、誰もが行く所（たとえば有名観光地）へ行かないとか、誰もが読む本（たとえばベストセラーの類）は読まないとかの小さなことから始まって、多くの人が望むような人生は望まない、というような生きかた全体に及ぶ。
これは、まだ人生について何も知らなかったわたしの骨の髄に入りこみ、わたしにとって最も自然な、本能のような行動原理になった。
大勢の人とともに道を歩いている。道が二手にわかれる。他の人たちは皆右の道を行く。そうするとわたしは一人で左の道に入って行く。それは、あえて異を立てるのでも、強情を張るのでもない。右のほうは正義に反するとか、左のほうがいいことがありそうだとか、思うのでもない。わたしの足はごく自然に、ほとんど無意識のうちに左を選ぶのである。
それは決して、頭を挙げて昂然と一人わが道をゆく、などという勇ましい、自信に満ちたものではない。わたしはいつも、胸を締めつけられるように、さびしくて、心細くて、こわくて、頭を垂れて悄然と、時には涙がこぼれそうになりながら、一人で歩いていた。そんなことをしていたら人におくれをとるのはあたりまえで、「友がみな我よりえらく見ゆる日よ」というが、わたしのばあいは三十年間ずっとそうだった。大ヶ瀬先生が期待してくれたように日本の指導者になるどころではなかった。
大ヶ瀬先生がわたしに教えようとしたことは、無論そうではなかっただろう。誰もがやっていることでも、ほんとうにそれが必要なことなのか、価値のあることなのか、意義のあることなのか、自分の頭で考えた上でどうするか決めよ、ということであったにちがいない。しかしわたしはまだ幼稚で、価値や意義の判断ができぬまま、とにかく誰もがすることはしない、という原理で動くようになり、大人になる前にそれがすっかり身について、慣性になってしまったのだと思う。
人が死ぬと葬儀がある。わたしは行かない。どうしても行きたければ葬儀の前かあとに行く。これなども別になんらかの主張があるわけではない。葬儀の日には誰もが行くからわたしは自然に行かないのである。大ヶ瀬先生の葬儀にも行かなかった。その日何かよんどころない用があったわけではない。誰もがするようにしたほうが──このばあいなら葬儀に参列したほうが気が楽にきまっているのだが、やはりわたしはそうしない。
今年五十六歳──これは数え年である。誰もが満で年齢を数えるからわたしは自然に数えで言うくせがついている──みんながする通りにしなかっただけに、さすがに妙なことになっている。家庭もない。定職もない。きまった居所もない。近畿中国一円をワゴンで転々しながら暮している。
損得から言えばずいぶん損な人生だったと思う。まあちょうど世間の逆を歩いて来たんだからしょうがない。それなりのおもしろさも、ないことはなかった。
上のようなことを一ぺん大ヶ瀬先生に言ってやりたいと、ずっと思っていた。
母がなくなった時に、わたしは香奠をもらわなかった。親が死んだらせがれが人から香奠をもらう。誰もがそうするからわたしはそうしなかった。わたしとしてはごく自然である。それを、ほかならぬ大ヶ瀬先生が「何様だと思ってやがる」と言ったからわたしは頭に来た。数か月後先生の家へ行って酒を飲んだ時、上に述べたようなことを逐一しゃべった。
「ほかの人ならばともかく、先生にそう言われる筋合いはない。どうだ、白紙のような子供の心に自分の影響を刷りこんでゆく中学教師というのは、おそろしい商売だと思い知ったか。」
「そんなこと知るもんか」と先生は呵々大笑した。わたしは機嫌を直し、われわれはまた愉快に酒を飲んだ。
（了）