妻は密入国者



 
 ここに書いた話はすべて、知人大橋某が私に語ったものである。

       は じ め に

 大橋を私に引き合わせたのは、私の友人の一人で福建人の李という元就学生で現在は不法滞在の男であった。
 福建人の李は日本に来て既に七年の歳月が経過していた。顔付きや話しているだけでは、まず中国人とは分からないほど日本語が堪能な男である。大橋は見た目は平凡そうな三○代のサラリーマンであるが、神経質で慎重そうな男であった。この男の回りにはいつも沢山の中国人がいた。中でも福建人が多い。大橋の周辺にいる福建人は、日本に合法的に滞在している留学生や就学生も少数はいるが、殆どが不法滞在者ばかりだ。大橋は彼らから「お兄さん」と呼ばれている。中には在日蛇頭、日本で泥棒を働くグループ、パチンコ裏ロムのボスなどもいる。大橋の日本と福建省での人脈、またこの男の中国語能力からすると、自ら一流の蛇頭が出来そうである。だが、彼自身が極めて危険な男かというと、そうではない。
 大橋はいつも妻となった福建人の同郷人の事で悩みをかかえていた。故郷にいる者の日本への招聘、身元保証人、アパートの連帯保証人、入管や警察に摘発された者の身元引受や面会、つぎつぎと日本へ押し寄せる同郷の親戚の世話などだ。大橋は世話好きでどこか人の良さそうな男でもあった。妻の里帰りの際のプレゼントという散財も含めて、彼の悩みは、福建人でなくても中国人と結婚した日本人なら誰しも経験することであった。
 親戚と言っても日本の親戚とはあきらかに異なる。日本ではとんでもない遠縁が中国では親戚になってしまう。姓が同じだけでも親戚と言うらしい。日本人の感覚とは余りにもかけ離れている。面子と家族意識の強い中国人はこの親戚関係をことのほか大切にする。中国人と結婚することは誰でも出来るが、結婚生活を続けて行くことは容易なことでない。日本で毎年六千組近い中国人との国際結婚があるが、その後結婚生活が続いているのは一体どれ程あるであろう。

 大橋は二人の中国人女性を愛した。そして中国と深く付き合うことになった。一人は上海出身だった。大橋は彼女と結婚するつもりでいたが、結果としては悲恋に終わった。次に知り合ったのは福建出身の女性だった。彼女とはめでたく結婚に至った。ところで、同じ中国人でも上海人は福建人のことを、田舎者で教育レベルが低いと言って嫌う。福建人の方でも上海人が大嫌いだ。上海人は誰とでもすぐ寝る、などと言って毛嫌いする。両者の間には怨念の淵が横たわっているのかも知れない。
 福建人の彼女は、大橋と知り合ったときビザはおろかパスポートも持ってはいなかった。その一年前日本に密入国していたのだ。彼女は大橋と結婚し、ある方法で日本のビザを取得した。結婚して今年三年目、その間大橋にとっては毎日が驚きの連続だった。
 妻の親戚は、蛇頭(スネークヘッド)の一人だった。密航者、偽装結婚、不法滞在、不法就労、在日蛇頭達。妻の故郷、福建省福清市。そこには、大勢の蛇頭達や、日本からの強制送還者、日本での出稼ぎ終了者、日本で暗躍する大泥棒のボスなどがいた。この日本移民の町には、豪邸が林立し高級ホテル、高級レストランが立ち並び、深夜遅くまでナイトライフを楽しむ人々で連日連夜異常な熱気に溢れている。彼ら(彼女ら)が日本から持ち帰る日本円は町の強力なエネルギーに変わる。ここは日本へ出稼ぎに行く福清人達の故郷であり、彼らの現代の竜宮場なのである。

 このルポは、二人の女性を通して中国社会を見て来た大橋の驚きの記録である。日本では新聞、週刊誌等の記事で蛇頭(スネークヘッド)がマフィアとして書かれていることがよくあるが、蛇頭とは決してマフィアではない。外国へ行く同郷人を手助けするシステムであり、中国人のネットワークなのだ。現実の蛇頭は、中国(福建省)では、「老板」(日本語では、社長の意味)と呼ばれていてマフィアなどのイメージとは程遠い。彼らは、中国(福建省)ではよき夫であり子供の父でもあるのだ。偽装結婚にしても、小姐達にとっては日本へ行くビザだけのためであり、なにも罪悪感は感じてはいない。船による密航にしても、彼らの罪の意識レベルは日本人の駐車違反程度かそれ以下なのだ。日本と中国などとの所得格差がある以上、決してそのシステムはなくなることはない。どんな手段を使っても日本へ行こうとする。日本で数年間働けば帰国して大金持ちだ。後は新しい家を買い、遊んで暮らす。そんな夢を持っている。そんな彼らは、皆性格はよい家族愛の強い素朴な人達である。むしろ今では、中国より豊かなはずの日本人が、彼ら(彼女ら)に金で利用され密航を手助けしたり、偽装結婚で戸籍を貸したり、自らのパスポートを売ったりしているのである。そんな日本人達のことを、彼らは「●●」(間抜け)と呼んでいることを、日本人は知らない。後に述べるように、それは「日本鬼子」という言葉に代表される日本人に対する嫌悪感の別の表現でもある。私は現在中国に住んで生活しており、以前から中国大好き中国病の人間だが、同胞が「●●」と呼ばれるのは残念でならない。国と国との間に嫌悪と軽蔑の感情があってはならないと思うのだ。日本人も中国人もお互いに対する偏見を持ってはならない。その意味で、日本人を悪者に仕立て上げたテレビ番組が繰り返し放映されているのは困ったものだと思う。いかに中国共産党の正当性を宣伝するためとはいえ、歴史を善悪のドラマ仕立てにするのはいい加減にしてほしい。

 さて、密航船で日本に渡って来るにせよ、偽装結婚などで合法を装って来日するにせよ、それを手引きしてもらうには日本円にして約三百万くらいを蛇頭に支払わなければならない。これが現在の不法入国の相場である。彼ら(彼女ら)は家族親戚からそれだけのお金を調達することが出来るという意味で、たいへん恵まれた人々であると言って良い。本当に貧しいのは中国内陸部から上海や広州へ出稼ぎに来る「盲流」と呼ばれる人々である。
 幸運にも日本に来られた人たちは、元を取り返そうと必死で働く。しかし、彼ら(彼女ら)の日本での身分はきわめて不安定なものだ。密航者はもちろん、偽装結婚・偽造パスポートなどで不法に入国した者だけでなく、親族訪問や留学生・就学生ビザで入国した者も、期限が過ぎれば不法滞在となる。彼らは日夜「ビザ」という名の怪物にうなされているようなものだ。それは正確には入国査証のことだが、在留資格も含めてビザと呼んでいる場合が多い。人々はあらゆる手段でビザを取ろうとする。それを持たない者は、あらゆる手を尽くして偽装し、また逃げ続け隠れ続ける。彼らのネットワークは最大限に生かされる。本書はその世界を描いたものである。