アンコール・ワットが眠る間に

カンボジアの歴史には大きな断絶がある。アンコール時代最後の碑文が作られた十四世紀から二百年の間、同時代史料が全く残されていない。この間、カンボジアの社会は大きな変容を遂げた。アンコール・ワットの記憶は薄れ言い伝えだけが残った。スールヤヴァルマン王やジャヤヴァルマン王の名前も事蹟も、ずっと後に碑文が解読されてわかったことである。だが、歴史の記憶は伝承に刻まれていた……。 気鋭の歴史学者によるフィールド・ワークの傑作

目次

第一章　「ペン夫人の丘」と四河川の合する所　　プノム・ペン

第二章　ポスト・アンコールの王都　　ロンヴェーク・ウドン

第三章　ポスト・アンコールの「王道」　　トンレー・サープ南西岸に沿って

第四章　メコン東岸の王都　　スレイ・サントー

第五章　フランス植民地都市と古代都市　　コムポン・チャーム、トボーン・クモム

第六章　王の港 　コムポート、シハヌーク・ヴィル

第七章　アンコールの「王道」　　トンレー・サープ北東岸に沿って

第八章　国境の果てにあった世界　　バット・ダムボーンとパイリン

第九章　急流地帯の先　　ストゥン・トラエン、ラタナ・キリ

第十章　プノムと古代の都城　　アンコール・ボレイ、バヤン・カオ

　 第十一章　失われた歴史　　アンコール・ワット

ま え が き

　カンボジアの歴史、特に世界遺産で有名なアンコール王都が放棄されてから、フランスがカンボジアを保護国化するまでの時期に関する史料は極めて少ない。唯一まとまった分量がある史料が、十八世紀末以降に編纂された『王朝年代記』なのである。この『王朝年代記』は、後代の編纂物である上に、伝承が混入しているなど、その内容の信憑性に疑問があるとされてきた。だとしたら、『王朝年代記』のどのような記述が伝承と共通しているのかを確かめるため、そして何よりその地域の昔に関わる情報の量を増やすため、私は留学後から一九九九年にかけて、いくつかの地域を設定し、その中にある全ての寺院を訪れ、近隣の遺構に関する情報、そのお寺や村に伝わる昔話を聞いて回った。……